はだしのぼくに、ビーチサンダル/u.w.

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2015.08.05 Wednesday ... - / -
#つぶやき
 久々に過去の記事などを読み返して、気恥ずかしいような、でも満足した気持ちになっている。ここに帰ってくると、なんだか初心にかえるような気持ちになります。
2015.08.05 Wednesday ... comments(0) / -
#hello again
 おひさしぶりです。

 まだ、ここを読んでくれている人がいるのか定かではないけれど、このブログをどうするのか、今考えているところです。日記自体は、ぽつぽつとですが、別のところで書いています。

 おそらく、ですが、ここを更新することは、もうしばらくないと思います。長い付き合いの方もいるので、もしよければですが、下記のURLを覗いてみてください。

 それでは、また。


juntos.
http://ccntm.blogspot.jp/






2013.01.09 Wednesday ... comments(0) / -
#欠けた気力
 昨日の日食が終わってから、わたしの中でも何かが欠けてしまったのではないか、と思うほど無気力でいる。やるべきことはたくさんあるのだけれど、なにも手がつかなくて、怖くなるほど。これを書き終えたら、もう一度着替えようかと思っている。着替えると、気持ちがしゃんとなる。木曜まで、家での仕事だからってらくちんな服を着ていたら、気持ちまでだらりとしてしまう。

 最近、またたくさん写真を撮っている。撮っているのは、専らつれのことばかり。休みの時間が合わないことが増えたせいかもしれない。写真をプリントしようかな、と思いつつ、始めたらきりがなくなりそうな気もして、なかなかふんぎりがつかない。仕事を先にやらなくちゃって。
 写真を撮っていて、たまに思うことがある。このひと、こんなかおだっけ?って。人は生きてるから、いつもちがう表情をしていて、じっと見つめると、なんだかいつも違ってみえる。だから、ふとした瞬間に、あ、こんな顔だったんだなぁ、と再確認したり、また再発見したりする。それが楽しいところ。日常の風景ばかりになってしまうけれど、たまには、どこか遠くへ行きたいと思ってしまう。来年は、どこか海外へ行こうね、ってこの間話をしたばかり。フィルムのカメラも持って、どこかへ行きたい。


 また日食のことに話は戻るのだけれど、昨日の朝はつれの車に乗って、途中までは一緒に行動できた。日食は一緒に見れないな、と残念な思いでいたのに、急につれのお使いをすることになって、それでね。だから、いつもは玄関で見送るのだけれど、一緒に出勤しつつ、日食をみつつ、たった十五分程度の短いドライブ。こういうことが素直に嬉しい。だって、夜はいくらベッドのなかで一緒だとしても、眠りはとても個人的なもので、それぞれ別々の眠りの中に落ちていくから。でも、そういう個人の時間があるからこそ、生きていられるのだけれど。それでも、物足りないと感じてしまうほどには、さみしがりなわたしたち。
 つぎは、いつ時間を合わせることができるかわからないけれど、行きたいところができたから、電車に乗って、バスに乗ってでかけていきたい。京都の街にある、羊毛専門店。そこで、糸紡ぎのキットを手に入れようと思って。やりたいと思ったことは、やっぱりやるべきだし、そのためにはお金も時間も割きたい。休みの日が、だからとても楽しみ。今週は無理でも、来週にはできれば。

 少し、気力が戻ってきたかもしれない。着替えて、欠けてしまった部分を、自分でまた補って。
2012.05.22 Tuesday ... comments(0) / -
#あぶれる
 結婚が素晴しいと人は言う。好きな人とずっと一緒にいられるから、世界が家族だと認めてくれるから、と。

 わたしにも、その素晴らしさはわかる。だけど、幸せな結婚をおめでとうと祝福しつつ、そこからあぶれる人々のことを考えずにはいられない。
 いくら好き同士でも、法律上結婚が認めらない人々が、今この日本で、そして世界にどれだけいるだろう。ずっと一緒に暮らしていこうね、と約束しても、家族として世界に認めてもらえない人々はどれだけいるだろう。

 普通に生活していたら、「ふつう」の人は気がつかない。でも、人が気づかなくても、きちんと存在して、息をして、生活をしている人々。みんなのいう「当たり前」だとか「幸せ」を横目にみつつ、自分たちにはなぜ、その「当たり前」の「幸せ」が認められないのだろうと感じる人々。なかには声を上げる人もいれば、静かに生活していく人もいる。みんな、なにかしらのみこんでいる。声にならない本心があって、みんなどこかでそれを抑えている。

 もちろん、結婚する、しないは自由だ。それを選択するのはひとりひとりの問題。でも、この選択肢は、すべての人に平等に与えられているわけではなくて、「ふつう」の人々しかもちえない選択肢だ。あぶれた人々には、愛する人との結婚は、選びたくても選べぬ道。そういうことを、考えたことがある人は、どれだけいるだろう。

 日本の外では、結婚やパートナーシップのあり方が、どんどん見直されてきている。同性同士の結婚が合法化されたりして、長年の夢をかなえる人々がでてきている。ようやく、「ふつう」の人と同じように「選択肢」がもてるようになった人が、「ふつう」のこととして結婚を選んだり、選ばなかったりできるようになった。それこそ喜ばしいことだとわたしは思う。結婚が、男女のみが享受できるものではなく、すべての人に平等に与えられる幸せとなればいいと思っている。

 それでも、それに反対するひとも数多くいるわけで。その人々の多くは、なにをもって反対するのかわたしには理解できない。法が変わっても、反対する人は、それによってなにか被害を受けるわけではないのだし、損をする人はいないのだもの。法が変わることで、「当たり前」の権利として認められる人が増えるだけのことなのに。
 でも、それが議論されるだけ、まだましではある。議論もされず、気付かれもせず、路傍の石のように大多数の無意識によって蹴り飛ばされ、摩耗させられ、そのまま忘れ去られてしまうのが一番悲しい。そういう人々にも、こころがあって、生活があって、人生があるのに。そもそも、その人々だって「ふつう」の人々と、何一つ変わらないのに。

 わたしが結婚について考えるとき、どうしてもそういうことを考えてしまう。幸せな結婚を選んだ人を恨むのでもなく、批判するでもなく、喧嘩を売っているわけでもない。ただ、幸せな結婚を、より多くの人が選べるようになればいい、と、こころからそう思っているだけのことなんです。だって、どんな人の幸せだって、両手をあげて祝福したいじゃないですか。笑顔で、おめでとうって、こころから言いたいじゃないですか。
2012.05.18 Friday ... comments(0) / -
#逃避行
 ここ数日、落ち着かない。こころが、どこか遠くへ、遠くへと行こうとする。日本を離れたい、そういう気持ちがむくむくと大きくなっていて、いや、でも、どこへ行こう。
 ブラジルに戻って、なにか仕事を始めようか、いや、いますぐそんなことはできない。つれはポルトガル語も、英語も話せない。ふたりで食べていくためには、きちんとした職が必要だ。でも、いまのわたしにブラジルですぐに職がみつかるだろうか。それに、まだ解決できていない問題がたくさんある。カフェの仕事もあるし、なにもかも中途半端なままだ。いま、外には出て行かれない。だけど、こころが帰ってこない。どこか、遠くへ、遠くへと旅をしたがっている。

 私が生まれた街、Bragança Paulistaという街が、サンパウロ州にある。その街で暮らしたことはないのだけれど、その街の中心街が、頭から離れない。
 丘の上に、綺麗な礼拝堂と広場があって、そのまわりは一帯が石畳の街並。大きな樹が、地面に光と影の濃いコントラストを作りだしていて、そこだけまったく別世界のような美しさが広がっている。その広場から、商店街へとつながっていく。坂道に並ぶ、いくつもの店、多くの人が行き交う。サングラスに、薄着の女性、短パンの青年、スーツ姿のサラリーマン、シスター、手をつないで歩く老夫婦、手持ち無沙汰な警察官、家を持たないホームレス、乞食。ブラジルの雑踏、風のそよぎ、笑い声。街の記憶が風と一緒に、わたしの頬をうちつける。
 かえりたい。
 なぜ急にこんなに帰りたい気持ちになったのだろう。先日、文章を書くために記憶を掘り起こしてきて以来、どうやらわたしのこころはブラジルに帰ったきりになっているようだ。連れて帰ってこなくちゃ思いつつ、連れて帰ってきたくない。

 もしかしたら、わたしはまた戻るかもしれない。あの日差しと影に肌を染めるそのためだけに、帰ってしまうかもしれない。そのときは、ひとりでなく、ふたりで。これは、逃避行になるのだろうか。わたしたちは、このさき、どこへ行くのだろう。明日のじぶんが、どこにいるかさえわたしにはわからないよ。


JUGEMテーマ:日記・一般


2012.05.15 Tuesday ... comments(0) / -
#きいろいひかり
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 気づけば、五月も半ばを過ぎようとしている。日々の生活を、たんたんとこなしながら、身のまわりや、心境の変化とうまく折り合いをつけようとしています。

 あたたかくなって、冬の悲しい気持ちから嘘のように脱皮して、今はのびのびと生活している。暢気なことは言えない状況はまだ続いているのものの、少し気持ちの余裕がでてきたのも事実。この二ヶ月くらいの間、いろんな経験をしたこともあって、少しずつ自信がもてるようになってきた。それだけじゃなく、生きるということに対して、前よりも肩の力を抜いて考えられるようになってきた、と思う。
 四月には、目の前でいくつかの命が失われていくのを目撃して、こころにぽかんと穴があいたような気がしていた。でも、生きている以上、生死は表裏一体、避けることが出来ない唯一の決定事項。そのことを、再認識して、じぶんは命を全うできるよう、一生懸命、楽しく生きようと強く決意できた月でもあった。わたしにとっても、そしてつれにとっても大事なひと月だったことに変わりはないし、この先も何度も何度も思い出すことになるひと月だったと思う。
 滋賀に越してきてから、もうすぐで半年になる。その間、いろんなことが起こりすぎて、まだ少し混乱気味。だけど、少しずつ初夏に近づいていくこの空気感だとか、朝日のまぶしさとか、午後のきいろい光などがあまりに心地よくて、どうでもいいかって思ったりもして。ぼちぼち、そして適当に生きていけばいっか、と思うことも増えてきた。あまりに真剣になりすぎて、肩がつまるより、ほんわりしていればきっと、道は開けてくると前向きに生きています。

 たまに、琵琶湖の中湖でつりをしたりするのも、楽しいよ。



 
 追記:
 “apartment”というところで、文章を書かせていただいています。たくさんの人々が集まって、ひとつのものを作ろうとしているのがとても素敵なところです。是非、覗いてみて下さい。

JUGEMテーマ:日記・一般


2012.05.14 Monday ... comments(0) / -
#情熱
 たまに、自分の集中力に驚くことがある。この集中力を、他のことにも生かせることができたら、と思うほど。あと、情熱。靴下を編む、という行為に対する、自分の飽くなき情熱に驚く。一心不乱、というか、なんというか。
 靴下を編んでいると、心の底から楽しい。こんなに楽しいことがあるのか、と編みながらいつも思う。編みあがった、まだかたっぽだけの靴下のなんと心細くて愛しいことか。ひと目ひと目、ひと針ひと針、少しずつ成長していく靴下をみて、心が励まされる。子どもはいないけれど、まるで子育てをしているような感じ。今は、編んだものの多くを里子に出しているから、ほんとうに子育てのよう。自分のもとに残る子は、うんとかわいがってあげようと、そんな気持ちになる。



 それにしても、今のご時世に編み物とは。数年前には想像すらしていなかった自分の姿がある。つれは良く、「反時代的に生きたい」と言う。それは、つれの尊敬する車谷長吉氏の言葉だけれど、でも、編み物を仕事にするというのも、なんだか反時代的な気がする。
 靴下だけじゃなく、今はなんでも大量生産。安価でいろんなものが買えるわけで。使い捨てが当たり前のような、そんなところさえある。安さで言えば、そういう商品に敵うわけがない。手間だって、どれくらいかかることか。でも、それでも、手で作るということの楽しさに勝るものはないと思う。だからこそ手間でも、効率的でなくてもやっていける。利益が大事な社会の中で、こんな生き方をしていたら馬鹿にされるかもしれない。だけど、結局のところ、一生懸命にやれることなら、それでいい。好きなことなら、それでいい。もちろん、生活に必要な分だけ、お金はいるのだけれど、それに事足りるだけ稼げばいい。



 テレビはほとんど観ないけれど、今晩は坂本龍一が出ているドキュメンタリー番組を見た。木の電位を測定して、それを音におこす。その音で、音楽をつくる、という試み。坂本さんのことはとても好きで、高校生のころから何かにつけてウォッチしていたのだけれど、この番組はとてもよかった。
 木の音を再現するという、ただそれだけのことではなくて、木の、自然の可能性や、重要性を改めて認識できる内容だった。
 わたし自身は、わりと自然のコスミックな面には気づいているつもり。自然の生物的な働きもそうなんだけれど、音声としての自然を、ブラジルで暮らしていた数年の間、ずっとずっと考えてきたから。 
 わたしが、科学が世界そのものだということに気づいたのは、毎日毎日、飽きることなく、家の周りの林、森、山、空、川、ありとあらゆる動物を、気象現象を、自然現象を目の当たりにしてきたからだ。生物が、物理が、化学が日常的で、身近に感じられたのは、頬に吹きつける風の威力だったり、雷の鮮やかな色だったり、近づいてくる木々の揺れる葉音だったり、不思議な形をした蜘蛛だったり、夕暮れどきに輝く蜉蝣の群れだったり、奇妙なダンスをする鳥の姿だったり、というのを黙って見つめてきたからだ。学校で勉強したことが、目の前の現象を通して、自分に焼き付けられている感覚は、都会の雑踏の中では、多分味わうことはできないだろう。それが生きた学びとなって、わたしのなかでいくつもの気づきが生まれて、自分なりの”生きる哲学”が育まれたのだと思う。まるで、大昔の人々、哲学者や、天文学者、科学者たちの考える喜びや、気づくことの興奮を疑似体験して理解していけたのは、自然を黙って見つめる時間を持てたからだと思っている。
 自然を守ることの大切さは、ただ自然エネルギーのためや、人間や動物が今後も生き続けるためにあるのではないはず。自然から学べることは、計り知れない。音を聞いて、移り変わる姿を眺めて、って、たったそれだけのことから、人はどれほどのことを学べるのか。想像できないほどの、へたしたら何億、何兆という学び、気づきが生まれるかもしれない。そういうチャンスが、永遠に失われるのは、とてつもなく悲しくて、どうしようもなく惜しい。
 そういうことを、久々に思い出して、再認識することができて、刺激的な時間は過ごせたと思う。録画しておけばよかったなと思いながら、高校生のころの自分が、実はとてつもなく幸福で、とんでもなく恵まれた環境で生きていたことに対して驚いたりして。木の発する音をもう一度聞きたいなぁ、と思いながら、今夜はもう寝ることにする。随分夜更かしになってしまった。
2012.02.13 Monday ... comments(0) / -
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